ペンを握る先生の指はすらりと長くて、けれど意外にごつごつしている。指先を飾る爪はやたらと丸こくて、いつも痛々しいくらいに深爪だ。その指で、手で、自分と同じように白球に触れていたなんて思うと少し不思議な気持ちだ。先生がグラウンドに立つ姿なんてどんなに想像しても思い浮かばない。

「ひどいなあ、これでも、ちゃんと高校球児してたんだよ。」

準備室にいた先生をつかまえて宿題を教えてもらうという名目で先生を独り占めした。集中力が欠けてきたところで常に思っていた疑問を投げてみたら心外だ、というふうに先生は顔をしかめて見せたけど、その顔は全然こわくなくてむしろとてもやさしく見えた。

「なんか想像できないンすよ。ちょっと先生どんくせえし。むしろ応援のために借り出された吹奏楽部っぽい。」
「そ、かな。まあ吹奏楽部には好きな子ならいたけどね。」

先生は急に思考が高校時代に戻ってしまったようで、その女の子のことでも思い出しているのかへらへらと気持ちのわるい顔をしている。ああ、この話をふったのは失敗だったなあと思った。
こういうときほど先生との年の差を思い知っていやなる。前に話したときも見てきたドラマやしてきたゲームなんかも全然違うことを知って、少しもかすらないことにこれでもか、というほどジェネレーションギャップを感じたことがあった。先生は先生で自分の年齢に嘆いているけど、おれは同時に自分がどれほど子供で、経験のない人間なのか思い知ってかなしくなる。
(きみはまだまだ若いから、)
ふ、と先生に言われた言葉を思い出した。
(狭い世界しか知らないんだよ。)

「先生、」
「ん、」
「せんせ、」
「どうしたの、阿部くん、」

(それでも、先生がすきだ。)

不意に口走ってしまいそうな気持ちを飲み込んだ。どれくらい自分がこどもか思い知っても、例え狭い世界にいるから抱いている気持ちでも、卒業してしまったら忘れて笑い話になるような幼稚な思いでも、もうだめなんだ、先生しかだめなんだ。
でも、どれくらいに自分が先生をすきでも先生が自分と同じ気持ちを返してくれることはない。先生のやさしさはだれにでも同じように与えられて、それ以上も以下もない。
先生は大人だ。いくらどんくさくてこどもっぽく見えたっておれよりはるかにいろんなこと知ってるし経験だってしてきてる。
全部知ってる。わかってる。わかってしまった。
じわじわと目の前に広がっていく雫に目の奥がぎゅ、と痛くなった。告げる前に死んでしまった気持ちがかわいそうでかなしくて仕方なかった。揺れる世界に先生の心配そうに伺う顔が広がって、けれどそれは瞬きの瞬間落ちてノートに染みを作った。

「ちょっとごみ、入っちゃって、」
「わ、だいじょぶ、阿部くん、」

口に出せない気持ちで息ができそうにないくらい胸がつぶれそうだった。同時に、泣くくらい思いつめていたことを知って自分がかわいくてかわいそうで嘲ってしまいたい気持ちになった。
(きみはまだまだ若いから、)(狭い世界しか知らないんだよ。)
そのとおりだよ、先生。

「大丈夫、すぐおさまると思う、」
「そ、う。よかったら、これ使って、」

差し出されたハンカチはよれよれでいつからポケットにつっこんでたんだよ、と愛しくなった。けれど、覗き込んでくる先生はなにも知らないままでいい。先生にはなにも言わない。このままでいいんだ。ずっとこのままでいい。
先生からハンカチを受け取って、涙を拭った。
不純な気持ちを持ってしまってごめんなさい。先生のやさしさを一番に欲しいなんて思ってしまってごめんなさい。でもこの気持ちを伝えて先生を困らせたりなんて絶対にしないから先生のハンカチを汚すことだけは許して欲しい。