阿部くんはおかしいよ。ぽつりと三橋が言った。

鳴き止まない蝉の声が耳を侵して頭がおかしくなりそうな日だった。頭上で鳴いているそれは子孫繁栄の望みと短命の嘆きを詠い、風も調子を合わせて木立を激しく揺らしてやかましかった。しかし阿部と三橋の2人には互いの声のみが世界にある全ての音で心臓が律動する音も呼吸するために空気を吸う音ももちろん蝉の声も風の音もこの世には存在しないものだった。

阿部は後悔していた。だって三橋がまるでこの世のものではないものを見るような恐怖と拒絶を色濃く宿した目で自分を見るなんて思ってもみなかったから。阿部は暑さのせいではない汗が額から流れ落ちるのを感じて、もしできるなら時間を戻してうっかりと三橋に恋慕を伝えてしまったことをなかったことにしてしまいたいと強く思った。

三橋は人形のように地面に張り付いて動かなかった。汗のみが肌の上を滑るようにして流れ動いている。視線は薄汚れた自分の外履きに合わせられまばたきする以外は動かない。唇は何度か薄く開き、何かを伝えるために空気を租借するみたく上下に動かされたがただそれだけで三橋は何も言わなかった。しかし、俯く顔を隠している前髪から覗く眉は深く眉間に皺を刻み阿部を拒絶していた。

「三橋、」

とうとう阿部がたまらなくなって三橋を呼んだ。困らせるようなこと言ってごめん。悪かった。なかったことにしてくれ。だから、顔あげてほしい。阿部が震える舌でそう言うと三橋は足元に釘付けになっていた目線をまるで阿部の体を這うかのようにしてゆっくりと引き上げた。しかし三橋は阿部を見るふりをしてまるで阿部を見ていない。三橋の視線は阿部の体の中に仕舞い込んでいる自分へのよこしまな恋慕を探していた。

「三橋、」
「おれはホモじゃない、」

ゆっくり三橋の口から吐かれた言葉がまるで鋭利な刃物であるかのように阿部の腹を刺して、鈍器であるかのように阿部の脳天を揺らした。拒絶。阿部は絶句した。目の前にいる三橋は阿部の知っている気弱で卑屈で阿部の欲しい三橋ではなかった。そこにはただ阿部の知らない真っ黒い目いっぱいに拒絶と軽蔑を表した男子が立っていた。

気持ち悪い。三橋は視線で阿部にそう言って逃げるようにして去っていった。三橋がいなくなった途端、阿部と三橋の世界は弾けて音が流れ出し拒絶していた蝉の声や風の音が阿部の鼓膜を震わせる。みーんみーんみーんみーん。ざーわざーわざーわざーわ。阿部はどうにもならないと思いながらもどうしても時間を戻して全てをなかったことにしてしまいたいと思うことをやめられなかった。阿部は三橋を失ったと思った。永遠。自分が欲しかった三橋はもうきっと手に入らない。阿部は三橋に投げられた言葉をもう一度思い出して、三橋の言葉に殺されると思うくらいに絶望した。